札幌高等裁判所 昭和45年(う)200号 判決 1971年10月26日
主文
本件控訴を棄却する。
理由
本件控訴の趣意は札幌高等検察庁検察官検事清水安喜提出の控訴趣意書に記載されたとおりであるからここにこれを引用し、これに対しつぎのように判断する。
論旨は、原判決は「被告人は、かねてより知り合いの中村木材株式会社代表取締役中村良一から依頼されて預り保管中の右中村木材株式会社(以下、中村木材という。)所有にかかる中川郡豊頃町字大川所在雑木丸太約七、八〇〇石(時価六五〇万円相当。以下本件木材という。)を、昭和四二年五月二四日ころ、帯広市東四条南一二丁目湯浅貿易株式会社帯広出張所において、ほしいままに河村秀美に対し代金三二〇万円で売却し、もつて横領したものである」との公訴事実に対し、ほぼこれに相応する外形的事実の存在を肯定しながら、結論として、被告人の右売却行為は「刑法上これを処罰しなければならないほどの違法有責な所為であると断ずることはできない」とし、本件公訴事実について無罪の言渡しをした。しかしながら、右判決は、いわゆる実質的違法性の意義を誤解したか、その判断の基礎となる事実の有無につき証拠の評価を誤つて事実を誤認した結果、違法性の有無についての判断を誤り、その結果違法性の明らかな被告人の行為を違法性なしとして刑法二五二条一項の適用を否定したものであつて、右誤りが判決に影響を及ぼすことが明らかであるから破棄を免れない、というのである。
よつて審按するに、
第一事実誤認の主張について
所論は、原判決は、被告人の本件木材処分行為の違法性判断の前提となるべき事実を誤認したと主張し、るる指摘する。原判決が、所論の指摘するように、いわゆる実質的違法性論(いわゆる超法規的違法性阻却論の趣旨と解される。)の見地から、本件における被告人の所為につき、違法性が阻却されると判断したものと解すべきかどうか、また、結論として、右所為が横領罪を構成しないとした法律的判断の当否等の点は、後に改めて論ずることとし、まず、所論が、原判決の事実認定に誤りがあるとして指摘する。主要な個々の論点に対する当裁判所の見解を示すこととする。
一仮装売買契約締結時における中村良一の言動に関する所論について
所論は、原判決が、被告人と中村木材との間で本件木材の仮装売買契約が締結された当時の中村良一の言動につき、中村木材の倒産が、いわゆる計画倒産で、被告人らの債権は必ず優先的に支払うべき旨十分説明していなかつたとか、その際、被告人の不信を買うような放言をしたなどと認定しているのは誤りであると主張する。
一件記録ならびに当審事実調の結果によると、昭和四二年五月始めころ、中村木材の倒産を知つた被告人が、神野静一の示唆もあつて、伐採ずみの本件木材に、急遽自己の刻印を押し、自己の債権(手形金債権合計二一〇万円)確保を図るとともに、同月五日、広尾町の旅館松葉荘において仲裁役たる右神野静一、中村の帳場である松能直治、中村の債権者小田清ら立会いのもとに、中村に対し、強くその返済方を迫つた結果、同日、本件木材を中村木材から被告人に売り渡す旨の仮装売買契約書を作成するに至つた事実が明らかであるが、右仮装売買契約書作成の趣旨、目的は、原判決も説示するとおり、要するに、本件木材に対する他の債権者の差押等を回避するとともに、中村においてこれを他に売却した際には、優先的に、被告人および小田清らの債務の弁済を行なう旨約することにより、被告人らの債権を事実上担保する点にあつたと認められる。ところで、右松葉荘の会合において、中村は「今回の倒産は、いわゆる不良債権債務を整理するためのもので、自分には、積丹にホテルもあるし、他に木工場もあるから、倒産しても少しも困らない」などと、しきりに自己の資力を誇示する一方、債務の返済につき、具体的な方策を示せと迫る被告人に対し「木材の名義を移し、刻印(被告人の)も打つておけば、心配ないだろう。」などといつて、前記売買契約書の作成による事実上の担保の提供に応じたが、自己の隠し財産の詳細や、被告人に対する債務の具体的な返済計画、返済時期等に関しては、一切説明を行なわず、そのため被告人は、同人の言を信じてその場は一応引き下つたものの、従前の同人との取引の経緯やその後の事態の進展(これらの点については、後述する。)等を思い合わせ、その後急速に同人に対する不信の念を深めていつたものと認められる。以上のとおり、中村は、右松葉荘において、被告人に対し、自己の計画倒産の趣旨や、被告人に対る債務の返済の自信等について、何らの説明をしなかつたというわけではないが、当日の中村の説明ないし言動は、いわゆる計画倒産という社会的に正当と言い難い行為により、被告人ら債権者に著しい不信感を与えたのであるからこれを取り除く真しな努力をなすべき立場にあつた者のそれとしては、はなはだ不適切かつ不十分であつたというほかなく、原判決の前記説示は、措辞いささか適切を欠くうらみがないわけではないが、右に述べた意味において、なおこれを首肯することができる。
二中村が被告人の不知の間に、本件木材を他に売却し、その代金を他に流用するおそれはなかつたとの所論について
所論は、原判決が、中村において、被告人不知の間に、約旨に反して本件木材を他に売却してしまうおそれがあつたとしている点を論難し、右のようなおそれはなかつたと主張する。関係証拠によると、被告人が、当時本件木材に対し、自己の刻印を押していた事実は明らかであり、木材の取引において、売買対象物件に売主と異る刻印が押されている場合には、買主は、右刻印の主に、所有権の帰属等を照会してから買うのが通例であり、右照会なしに売買が行なわれるのは、稀有のことであること、本件木材の搬出は、その地形上かなり因難な作業であり、それには相当の日数を要すると思われること、被告人自身も、右のような無断搬出の事態を、さして危ぐしていなかつた旨供述していること等の事実が認められ、これらの点からすると、動産である右木材が無断搬出される危険性が皆無であつたとまではいえないとしても、その程度は、さして高くなかつたものと認められる。そうすると、この点に関する原判決の説示は、動産たる木材の抽象的な搬出可能性を指摘する限りでは、もとより正当であるにしても、本件木材の無断搬出を事実上困難にする前記のような諸要因を過少評価しているきらいがあり、事実誤認の疑いがある。
三被告人が中村に対し、五月一五日までに連絡がなければ本件木材を売却すると通告ひた事実はなかつたのとの所論について
所論は、被告人が中村に対し、五月一五日までに連絡がなければ本件木材を売却すると連絡したとする原判決の認定を論難し、右のような事実はなかつたと主張する。よつて検討するに、右の点については、右のような事実があつたとする被告人の原審および当審各公判廷における一貫した供述と、これを極力否定する趣旨の当審証人中村良一および秀子(右良一の妻)の当審公判廷における各供述(以下、中村良一の原審公判廷における供述を原審中村供述、当審公判廷におけるそれを当審中村供述、両者を一括して中村供述という。)とが対立し、他に何らの証拠が存在しないのであるから、結局、右各供述のいずれを措信するかにより、結論が左右されることになる。ところで、本件における被告人と中村良一
(なお、同秀子は、これと一心同体の関係にあると認められ、独立して論ずる実益に乏しい。)との関係は、両者間の債権債務関係が最終的に未整理で民事上の利害関係が尖鋭に対立するうえ、不渡手形を出して迷惑をかけた中村が逆に被告人を告訴した等の経緯もあつて、感情的なもつれもからみ、通常の加害者と被害者という以上に微妙な関係であるといわなければならない、のみならず、後に詳細に検討するように、そのいずれの供述についても、明らかに客観的事実に反すると認められる部分があつて、必ずしも、その一方に万全の信を措き難いうらみがあるのであるから、結局、右各供述の信用性を比較検討するにあたつては、個々の論点ごとに、各供述の内容の合理性を他の客観的事実の対比において検討し、事実の存否を確定する必要がある。そこで、右の観点から、前記通告の有無について考えるに、原判決も指摘するとおり、被告人は、原審以来、右事実を強く主張し、当審公判廷においても、「松葉荘での話合いのあと、小樽の中村方に数回電話したが、すべて女の人が出て応対し、中村とは話ができなかつた。二回位は奥さんが出たのではないかと思う」旨供述しているのであり、当時、本件木材により自己の債権の事実上の担保を得ていたとはいえ、取引銀行等からの督促もあり、早急に金策の必要があつた被告人の立場からすれば、前記仮装売買契約締結後何ら連絡のない中村に対し、かかる督促の電話をしたとの供述は、一応の合理性を有し、にわかに排斥し難いといわなければならない。そうすると、他に特段の事情の認められない以上、右の点に関しては、前掲当審中村供述にも拘らず、少くとも被告人が中村に対し前記のような通告をしなかつたと断定するには、なお合理的な疑いが残ると認められ、原判決の前記認定は、結局相当として首肯できる。
四本件木材の適正価格に関する所論について
所論は、本件木材の処分当時の価格は、原判決の認定するような三二〇万円ではなく、六五〇万円であつたと主張する。たしかに、右木材の価格については、原審当時において、三二〇万円を適正価格とする被告人および河村秀美、芳賀一三らの供述のほか、六五〇万円が適正であるとする原審中村供述が相対立していたものであり、これに、当審における証人石塚光夫の当審公判廷における供述(以下石塚供述という。)等をも加えて検討すると、所論の指摘も、一応の理由がないわけではない。しかしながら、証人兼鑑定人若林幸雄に対する当裁判所の尋問調書(以下、若林鑑定という。)には、右木材が、被告人の売却当時と同様、いわゆる木寄の段階で取引されたとして、昭和四二年五月当時の山元価格は三、二二三、九〇一円であつたと推計される旨の記載があるのであり、右は、帯広営林技官であり、当初当審における検察官申請の証人として、本件木材の価額について、検察官の主張の趣旨に副う供述をしていた同人が、本件木材が伐採・搬出された現場について現実に踏査し、現地の地形等をも加味して従前の供述を修正した結果であること、ならびに右供述の内容に不合理な点が認められないこと等からすれば、高度の信びよう性を有すると認めるのが相当である。したがつて、右木材の価額の点に関する原判決の認定は、まことに正当であり、何ら事実誤認のかどは認められない。もつとも、後記のとおり、中村が伊藤組木材株式会社(以下、伊藤組という。)との間で、本件木材の売渡しにつき交渉し、仮契約の成立にこぎつけたことは事実と認められ、その際作成した仮契約書との関係を具体的に指摘し、六〇〇万円前後で本契約が成立する予定であつたとする同人の供述が、全く架空の事実を述べたものとも、にわかに断定し難いが、前掲若林鑑定の存在に加え、石塚証人が、仮契約書作成の経緯につき、ほぼ中村供述に符合する供述をしながら、右価格の点について、なお明確な供述を避けていること等からすれば、右中村供述には、合理的な疑問をさしはさむ余地があると認められる。
五被告人が本件木材を、中村との接渉を避けて売り急いだとの所論について
所論は、被告人は、五月二四日ころ、中村が、本件債務の整理のため被告人方に赴いたのに対し、広尾の小田清方に出向いてしまつてことさらこれを避け、急遽右木材を河村木材に売却してしまつたもので、右の事実を看過した原判決の判断は不当である、と主張する。前掲中村供述、証人神野静一および同小田清に対する当裁判所の証人尋問調書(以下、それぞれ神野調書、小田調書という。)、石塚供述、押収してある仮契約書(当庁昭和四五年押第五三号符号6)を総合すると、中村は、被告人との前記仮装売買契約締結後、伊藤組に対し、本件木材の買取方を交渉し、五月二三日、売買価格の点になお相当の交渉の余地を残したまま、仮契約の成立にこぎつけたので、急遽広尾町の神野静一に、右の件を報告するとともに、被告人への連絡を依頼する一方(なお、神野は、同日日被告人方に電話し、被告人の妻に対し、中村が、手形を持つて来訪する旨を告げた。)自己の取引銀行たる北陸銀行小樽支店から、相当額の受取手形を引き出し、手持の現金を加えて、翌二四日、幌泉町字目黒の被告人方へ向けて出発し、途中様似で一泊して、翌二五日午前中に、被告人方付近に赴いたところ、被告人の妻から、被告人が大樹の小田方に行つている旨告げられて、被告人に会えず、やむなく広尾町の神野方に立ち寄つたこと、間もなく、同所で中村は、小田との電話連絡により、すでにその前日被告人の手により河村秀美に対し売却されたことを知り、小田方からの再々の招請を断つて、ついに被告人と面談しないまま、同地を立ち去つたこと、等の事実が明らかである。もつとも、右の点につき、被告人は、原審および当審各公判廷において、「中村が広尾に来たのは、五月二〇日ごろで、未だ、河村との売買の話がきまる前だつた。当日、神野方との電話連絡の際には、本件木材を売るとか、売つたとかいう話はしていない」旨供述している。しかし、中村が被告人方を訪れた時期、目的、神野方での小田らとのやりとり等に関する前掲中村供述は、大筋においてほぼ一貫しているだけでなく(なお、中村は、原審においては、被告人方を訪れた日を、五月二四日としながら、当審においては、これを二五日であつた旨供述しているが、もし右来訪の日が二四日であつたとすれば、被告人は不在で、右に述べたような一連のやりとりをする余地がないのであるから、右日時の点に関する中村の記憶は、当審におけるものの方が正確であると認められる。)、右来訪の時期を、伊藤組との仮契約の成立時期との関連において具体的に供述しており、右の点は、前掲仮契約書の存在等客観的証拠によつても支えられていること、一部にいささか誇張的な給現のある点を除きその内容が、神野調書、小田調書の内容ともほぼ符合していること等の諸点に照らし、まず間違いのないところと考えられるのに対し、被告人の供述は、ともに中村の来訪を待ち受けた小田の供述ともくいちがい、他に、何ら裏付けとなる事実を見出し難いのであるから、結局、右の点に関する限り、被告人の供述は、信びよう性に乏しく、中村供述を措信するのが相当である。そうすると、被告人は、神野から、中村が手形を持つて来訪する旨の連絡を受けたにも拘らず、その翌日、同人の来訪を待たずして河村との売買契約を締結してしまつたこととなり、その行動は、いささか性急であつたとの感を免れないのであるが、ただ、中村のそれまでの度重なる誠意のない態度により、同人に対し強い不信の念を抱いていた当時の被告人としては、神野を通じ、たんに「中村が手形を持つて出向いて来る」との一片の電話連絡を受けただけでは、とうていこれまで抱いていた不信感を解消するには至らなかつたであろうし、何故に中村が自己に直接連絡して来ないのかとの疑問や、またもや信用のできない手形をつかまされるのではないか、などの不安等も複雑に交錯し、中村の到着をまたずに、かねて売渡交渉中であつた河村に対し、本件木材を売り渡したとしても、この点をあながち強く責めることは、できないであろう。中村としては、かねて被告人から、前記のような通告を受け、被告人が本件木材の売却処分に出ることが十分予測できたのであるから、おそくも、右段階までには、伊藤組との売買交渉の経緯や持参する手形の内容等を具体的に説明し、被告人の不安を解消して、処分を思い止まらせる措置を講ずるべきであつたのである。(なお、前記二五日に、被告人が自宅でなく、小田方に赴き同所で中村を待ち受けた際の経緯からすると、被告人が、中村との面談を、ことさらに回避したのではないかとの検察官指摘の疑問も、一応もつとものようであるが、右は、被告人が木材を処分した事後の行動であるのみならず、被告人が、原審および当審各公判廷において一貫して供述しているように、中村の従前の言動からみて、自己が単独で面会接渉することにより、同じ債権者である小田との関係が微妙になることを配慮したにすぎないと見る余地もないわけではない。他方、これを中村の側について見ると、同人が、被告人らの再三の招請にも拘らず、何故に、小田方に被告人を訪ね、前記伊藤組との交渉の経緯を説明し、かつ持参の手形を示す等して、ともに善後策を講ずる一挙手一投足の労すら取らずして、漫然同地を立ち去つてしまつたのかについて、なお相当の疑問が残るのであり、右の点は、一方において、中村が、果たして、どの程度真剣に、被告人らに対する債務の清算を顧慮していたのかについての疑問に連なると同時に、他方において、「中村には、自分と小田とが同席では面談できないような事情があつたのではないか」との被告人の供述を側面から支持する事由とも見られないことはない。したがつて、当日の被告人の行動につき、いささか慎重を欠いた点がなかつたとはいえないとしても、この点で、被告人を強く責めるのは、相当でない。)以上の点につき、原判決が、どのような事実の認識に立つているのかは、判文上必ずしも明らかでないが、もし中村来訪の日時等に関し、被告人の弁疎する線に副う事実関係を肯定する趣旨であれば、事実を誤認したものというほかない。
以上のとおり、原判決は、違法性判断の前提となる事実の認定に関し、右に指摘した限度で事実誤認を冒したものというべく、所論は一部理由があるが、これらの点を加味して検討しても、後に詳細に検討するとおり、原判決の無罪の結論は相当であると認められるので、右事実誤認は、判決に影響を及ぼすことが明らかなものであるとはいえず、論旨は理由がない。
第二法令適用の主張について
所論は、原判決は、違法性の有無についての判断を誤り、横領罪を構成することの明らかな被告人の行為について、刑法二五二条一項の適用を否定したもので、原判決には、判決に影響を及ぼすことの明らかな法令適用の誤りがあるという。
ところで、所論は、原判決が、いわゆる超法規的違法性阻却事由の存在を肯定して、横領罪の構成要件を充足する行為につき、その違法性が阻却されるとしたものであるとして、その判断の不当を論難するのであるが、原判決は、被告人の行為を全体的に観察し、「民事法上は格別刑法上これを横領罪として処罰しなければならないほど違法有責な所為であると断ずることはできない」としているだけであつて、必ずしも、所論の指摘するように、右所為が横領罪の構成要件に該当することを認めたうえで、超法規的にその違法性が阻却されるとしたものとは解されず、むしろ、右行為の動機、目的、手段方法、被害法益の大小等一切の事情を総合して考察し、右行為が横領罪の構成要件に該当しないと判断したものと考えられるので、所論は、まず立論の前提を誤つたものといわなければならない。しかしながら、いわゆる可罰的違法性の理論によるにせよ、超法規的違法性阻却の理論によるにせよ、原判決は、横領罪の構成要件に形式的には該当するかに見える被告人の所為につき、同罪の成立を否定した点に変りはないのであり、所論は、原判決の右の判断に誤りがあると主張する趣旨をも包含すると解されるので、以下、右の観点から検討を加えることとする。
前段において検討したところを前提とし、一件記録ならびに当審事実調の結果により認められる、被告人が本件木材を売却するに至つた経緯を通観すると、その概要は、つぎのとおりであつたと認められる。すなわち、木材伐採業を営む被告人は、昭和四二年一月ころ、かねて自己と取引関係のあつた木材商である中村から、北海道中川郡豊頃町字大川所在の立木七、八〇〇石の伐採方を依頼され、報酬額についての意見の相違から、いつたんこれを断つたが、その後、同年二月ころ「右伐採は、中村の責任においてこれを行ない、被告人は、月額一〇万円の報酬を受け、現場監督としてこれに協力する」との線で話がまとまり、被告人は、同月中旬右伐採の作業を開始し、同年三月中にこれを終了した。ところが、中村は、右作業の進捗に伴い当然必要な経費(人夫等に支払う賃金等)の支払いも怠りがちであつたため、被告人において右作業の進捗を図るためには、自己において右経費の一部を、事実上立替え支払わなければならず、金策に苦慮した被告人は、人夫数名を伴い、小樽市の中村方に出向いて、ようやくその人夫賃の支払いを受けたこともあつたが、結局、右作業終了当時においても、右木材伐採の経費ならびに報酬として支払われた中村木材引受の為替手形二通(額面五〇万円、満期日昭和四二年五月末日のもの、および額面八〇万円、満期日同年七月末日のもの。)ならびに右伐採とは別個の取引の代金として支払われた同じく右中村木材引受の為替手形一通(額面八〇万円満期日同年七月末日のもの。)が、いずれも決済未了となつていたほか、なお相当額の債権を有していた(なお、被告人は、当審公判廷において、中村木材に対し前記手形債権のほか合計二〇〇万円近くの債権を有していたと主張し、中村は、逆に、被告人に対し、約一〇〇万円の貸越しになつていた旨供述し、それぞれその計算の根拠を詳細に説明する。いずれの説明についても種々の疑問があつて、少くとも全面的には措信し難く、結局、右債権債務関係の詳細を証拠上逐一確定することはできないけれども、最少限度、本件木材についての前記仮装売買契約締結当時、被告人が債権者として扱われていたことは明らかであり、被告人に対し、逆に債権を有していたとする中村供述は、とうてい信用できないのであつて、結局、この点についても、被告人が中村に対し、前記二一〇万円の手形債権のほか、なお、前掲被告人の供述の線に近い、少くとも一〇〇万円を越える額の債権を有していたと考えるのが合理的である。)。一方、中村は、自己の不良債権債務を整理すると称して、いわゆる計画倒産を図り、同年四月末ころ、二〇〇万ないし三〇〇万円の不渡手形を出して倒産した。これを聞知した被告人は、広尾町の木材商神野静一の示唆もあつて、同年五月五日ころ、伐採ずみの本件木材に、急遽自己の刻印を押し、自己の債権(前記手形金債権合計二一〇万円等)の確保を図るとともに、同月五日、広尾町の旅館松葉荘において仲裁役たる神野静一、中村の帳場である松能直治、債権者小田清ら立会いのもとに、中村に対し、債務の弁済方を強く迫つた結果、中村においても、本件木材に対する他の債権者の差押等を回避し、かつ、被告人および小田らの債権を事実上担保する趣旨のもとに、本件木材を中村木材から被告人に対して売り渡す旨の仮装売買契約書の作成に応じたが、前記第一、一において判示したとおり、自己の資力を抽象的に誇示するばかりで、その隠し財産の詳細や債務の弁済時期、方法等に関しては、一切説明を行なわなかつた。しかして、右松葉荘における会合の後、中村は、伊藤組との間で本件木材の売渡交渉を行ない、同月一〇日ころには、小田清立会のもとに、伊藤組の係員を本件木材の所在地へ案内した等の経緯を経て、同月二三日には、価格に関しなお相当の交渉の余地を残したまま、仮契約の成立にこぎつけたが、その間、中村は被告人に対し、右売買交渉の経過を説明し、被告人の不安を取り除く等の措置をとつたことは一度もなく、逆に、被告人から電話の連絡があつても、自らこれに応答したこともなかつた。一方、被告人は、中村木材の倒産を知つた北洋相互銀行幌泉支店から、自己が裏書人となつて同銀行で割引きを受けた、中村木材引受けの前記手形三通の決済方を迫られ、さらには、本件木材の伐採に要した諸経費(労務者の賃金や商店への支払等被告人において事実上立替払いしたもの。)の捻出にも苦慮したあげく、再々中村方へ電話で連絡したが、本人不在との理由で直接連絡が取れず、中村本人からも何らの連絡がないため、次第に、中村の支払の誠意に疑問を深め、中村が早期に債務支払のめどをつけない場合には、自ら保管中の本件木材を他へ売却して、右債権の回収を図るもやむを得ないと考えるようになり、徐々に買主の物色、打診を始める一方、中村方に対しては、「五月一五日までに連絡がなければ、本件木材を売却する」旨、電話で通告した(なお、その際も、中村本人とは、直接通話することができなかつた。)。以上の経緯で被告人は、五月一五日を経過しても、中村から何らの連絡がないため、同月一七、八日ころかねて買受けの意向を打診していた湯浅貿易株式会社帯広出張所長芳賀一三を通じ、河村木材株式会社代表取締役河村秀美と右木材の売買につき交渉し、神野から中村の来訪方の前記通知のあつた翌日である、同月二四日、同じく中村に対し約八〇万円の債権を有する小田清とも相談のうえ、右河村に対し、代金三二〇万円の適正価格で売り渡した(なお、右金員の授受は、同月末ころ行なわれ、右のうち二〇万円を手数料として、前記芳賀に支払い、残りの三〇〇万円のうち、約五〇万円を小田が、残余を被告人が各利得して、それぞれの債権の回収を図つた。)。翌二五日、中村は、被告人と面談すべく、バスで被告人方付近に赴いたが、被告人が大樹の小田方にて中村の来訪を待機していたため面会できず、広尾町の神野方に立ち寄つたところ、同人と小田らとの電話連絡により、本件木材がすでに売却ずみであることを知り、被告人らからの再三の招請を断つて、同地を立ち去つた。以上のとおりであつたと認められる。
これによると、本件における被告人の木材売却行為は、もともと、中村木材の計画倒産という、社会的に正当と言い難い行為の一環から派生したものであることは原判決が説示するとおりである。ところで、右のような行為により債権者に不信を抱かせた債務者が、特定の債権者との間で、法律上の担保を提供せずして、債務の支払を事実上猶予してもらうためには、できる限り詳細に自己の資産状態、返済計画等を債権者に説明し、債権者の不安を解消する努力をなすべきが当然であるのに、中村は、その挙に出でず、本件木材の伐採事業の前後を通じて被告人に対し多額の債務を負つているにも拘らず、本件木材に対する被告人の刻印を事後的に承認し、かつ、前記仮装売買契約書の作成に応ずる等、事実上の担保を提供したのみで、被告人からの再々の電話連絡ないし電話による通告に対しても、何らの返答を行なわなかつたものであつて、前記手形三通の決済資金等の金策に追われた被告人が、右のような中村の態度に次第に不信感を強め、同人の明示の承諾を待たずに本件木材を売却し、自己の債権の回収を図つたとしても、これを強く非難することはできないであろう。しかも、被告人が売却した本件木材の処分価格は、客観的に見て適正な価格であり、とくにこれを売り急いだとか、買いたたかれたため中村に多額の損害を与えた等の事情も認めることができないのであつて、形式上の被害額は、決して少額とはいえないが、その結果、中村自身も、当然支払わなければならないところの、ほぼこれと見合う額(ないしはそれ以上)の被告人および小田に対する債務の支払を事実上免れているのであるから、その実質上の被害は、皆無に近いといえる。そして当然のことながら、被告人における右利得金の現実の使途は、もつぱら、本件木材伐採事業に基因して被害人が負担した債務の決済にあてられているのである。他方、中村は、債務者として当然になすべき前記のような措置を何らとらなかつたばかりでなく、伊藤組との交渉の経過も一切被告人に説明せず、いたずらに被告人に不信の念を深めさせたあげく、前記仮契約の成立とともに、神野を通じ、「手形を持つて出向く」旨の一片の通告をしたのみで、神野から、木材が被告人により売却された旨知らされるや、被告人らの再三の招請を断り、小田方にて待機する被告人と面談し、善後策を協議する等の措置すら取らずに、立ち去つてしまつたものであつて、以上のほか、被告人の本件木材売却行為の前後にまたがるすべての事情を主観客観の両面から総合的に考察すると、すでに述べたとおり、本件木材の売却処分にあたり、被告人においていささか適切を欠く措置が皆無であつたとはいえないにしても、その程度は比較的軽微であり、結局、右処分行為をもつて、横領罪として処罰さるべき実体を具有する違法な行為であるとまでは断定することができず、これとほぼ同趣旨のもとに、被告人の所為の可罰性を否定した原判決の結論は、結局これを首肯することができる。論旨は理由がない。
よつて、本件控訴はその理由がないから、刑事訴訟法三九六条によりこれを棄却することとし、主文のとおり判決する。(中西孝 小川正澄 木谷明)